470年余の歴史と伝統を持つ木工の産地
福岡県大川市

大川家具の歴史はさかのぼること約470年前。 室町時代(西暦1536年)に足利幕府下における戦火を逃れて榎津久米之介と家臣たちが、共に大川市榎津地区に願蓮寺を建立し帰依しました。これが大川の木工の開祖と言われる所存です。

久米之介は同伴した家臣たちの生活の糧として、大工・木工職を激励し、その船大工の技術取得から、家具(指物)の作成技術を習得させたことが、大川での家具作成の起源と言われています。

元々大川は、九州一の大河である筑後川の河口に位置し、その上流(大分県日田市等)から良質な木材をいかだで運んで集積地とし、そこで船大工が集まり舟大工業が盛んな土地でした。

同じ時、室町時代に全国で社殿や寺院の柱・欄間等に塗装ほ施す建築彫刻が発展しました。昭和に入り木造住宅の茶の間、客間等の敷居の上に、採光と換気・通風を良くする実用性と、建築の品格を高める装飾性を兼ね備えて取り付けられた室内彫刻・欄間へと変化しました。

榎津久米之介像
丸太流し

大川組子
木の種類と特性を熟知した職人が作り出す
精巧な伝統の技

大川組子は、数千個もの木のパーツを釘や接着剤を使わずに1つずつ精巧に組んで200種類以上もの図柄を表現したもので、福岡県知事指定特産工芸品(昭和62年度指定)に指定される、日本を代表する伝統技法のひとつです。

大川組子は約300年の歴史を誇り、古くは現存する最古の建築「法隆寺金堂」の高欄に卍崩しの組子が配され、近年は道を究めた職人が独自の図柄を生み出しています。日本一の家具産地大川では、特産品である大川家具に伝統工芸品である大川組子を取り入れた家具も少なくありません。

職人の長年の勘と技で、木の種類と特性を熟知し、0.01ミリ単位で削って精巧に組み上げた作品は、見る方向や光によって表情を変え、光と影の絶妙なハーモニーが空間を華やかに彩ります。特に大川組子はその美しさから、JRの豪華寝台列車「ななつ星in九州」 の客室と通路を華麗に彩り、一躍脚光を浴びました。今や大川組子は、全国、世界を代表する作品として名を馳せています。

大川組子
大川彫刻

大川家具職人のはじまりは
一人の職人から

大川家具の歴史は、一人の職人からはじまりました。室町時代、船大工の技術を生かして指物(収納箱作り)を始めた「榎津久米之介」が大川家具の起りとなる榎津指物を生み出しました。江戸時代後期、「田ノ上嘉作」はそれまでの榎津箪笥に長崎で習得した箱物の技術を加え、嘉作の死後は孫にあたる初太郎が唐津細工の技法を学び、田ノ上一門の代々の名工達が唐木細工やオランダ家具などの技法を学び、大川家具の礎を築きあげました。

明治になり、細工の技術を得た大川職人が作る榎津指物はよりいっそうの評判を得て、ますます発展していきました。明治44年、家具職人を養成するための学校「大川工業講習所」が開設し、後継者の育成に尽力。昭和30年5月、今日の大川家具の原型が生まれました。「河内諒」がデザインした引き手(取っ手)なしの和箪笥です。その洗練されたデザインで、大阪で開かれた西日本物産展でデザインのが最高賞を受賞し、これをきっかけに日本中の人気を集めました。

以降、大川は今日まで後継者の育成に尽力し、右を向けば木工所、左を向いても木工所という、町全体が巨大な木工所の集合体という日本一の家具名産地となったのです。大川の職人は今現在も、歴代の名工たちの伝統を受け継ぎ、現代の家具に合わせて技を変化させています。

大川組子
大川彫刻