普段、大手ホテルにお納めしている
本物の一流ホテルのベッドや周辺寝具類を、
一台・一枚から、
一般のご家庭向けにもお届けしています。

工場の歴史

一流ホテルのベッドをつくる誇り

現在、日本全国の高級ホテルの客室向けにベッドを製造している工場は、私の祖父(渡辺礼市)の代に創業しました。

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私はこれまで、大手ホテル客室のベッドを長年担当させて頂いた関係で、たとえば、都内・虎ノ門にあるホテルオークラの本社や、赤坂にあるホテルニューオータニの本社、あるいは、大阪・中之島にあるリーガロイヤルホテルの本社など々・・大手ホテルの本部に頻繁に出入りさせて頂きました。
(あるいは、日建設計、観光企画(KKS)、竹中工務店等々・・・有名ホテルの建築・設計・デザインに主に携わる大手企業等々)

その際、ホテルの支配人や上層部の方々から、ベッド工場の生い立ち等について、よく質問を受けました。

今でこそ、全国の名立たるホテル様にベッドを納入させていただいたり、SERTA(サータ)やROSET(ロゼ)などの海外のインテリア高級ブランドとライセンス契約を結んで日本国内で一手に製造するまで成長していますが、創業当時は、まだまだ日本の家庭にはベッドをはじめとする洋式のライフスタイルが普及していない時代で、大変な苦労がありました。

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祖父は、もともと広島出身で、戦前から戦中、そしてあの原爆投下から終戦に至る当時も、広島市内に住んでいました。
(実家は爆心地からは離れていましたので幸い一同は皆無事でした。)

祖父は、原爆投下で焼け野原になった広島市で、戦後、「広島第一授産場」という工場を興し、戦災者・引揚者・戦災孤児など400余名が働く工場を作りました。

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手を振られる天皇陛下
(遠くに原爆ドームが見えます)

当初、そこでは、ミシン作業や木工作業などで多くの商品を製造していました。

戦後すぐに、天皇陛下が広島に来られた際には、この工場にも立ち寄られました。
その際の記録が残っていますので少しご紹介します。

工場内では、多くの同作業場従業員や社会事業関係者、広島母子寮員、開拓団代表、子供達等、多くの人が出迎え、祖父がご案内致しました。

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授産工場内での天皇陛下

陛下は、社会事業関係者の前では「しっかり社会奉仕を頼みますよ。」と、一人一人に帽子をとってご会釈になられ、開拓団体には「いろいろ困難な事もあろうが食糧増産のためしっかりやって下さい。」とご激励、戦災者、引揚者などの生活困窮者400余名が働いている同授産所の工場、ミシン補導所、木工工場製作品陳列所をご視察になられました。

工場で働く、とある母に連れられた子を祖父が紹介すると、陛下は「しっかりやってね。」と、お言葉をかけられました。

記録に残っている、祖父の陛下案内の際の言葉 ;

「私が、場長の渡辺でございます。只今から御先導申上げます。ここに陳列致しておりますものは当授産所の製作品でございます。只今従業致しております者は約400名でございまして、その内で約20名がこの場で働いております。自宅で内職として働いております者が約280名でございます。その大部分は、戦災者と引揚者でございまして、一部の生活困窮者も働いて居ます。これらの従業者の収入を申し上げますと、技術者で多く取ります者が1日百七八十円でございます。また、少ない者が未経験の者で1日四十円位でございます。平均いたしまして1ヶ月千七百八十円となっているのでございます。」

また、陛下をお見送りした後、祖父は、次の様に語っています。

「天皇陛下には、中国地方御巡礼あそばし、同授産場にご来臨あそばされ、喧騒極まる塵埃の屋内作業現場の実情、及び、製品を御覧あそばされ、一々御激励・御慰労の御言葉を賜わりました。陛下の御温情溢るる御英姿御仁愛の御言葉に接し、一同、感涙に咽ぶ次第であります。私達、援護生産の事業に従事する者は、今日の善き日を記念し、更に業務に精励いたしまして、平和国家建設に微力を盡す決意であります。」

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そして、その後、この授産工場に、広島に駐留していた進駐米軍のベッドの修理・マットレスの修理が持ち込まれたことをきっかけに、ベッド寝具作りが始まったのです。

祖父は、これから日本人の生活が西洋化してゆき、ベッドが日本人の一般家庭に普及していくことを予知していた様です。

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1957年(昭和32年)1月に会社設立。同年(昭和32年)7月、製造部門を分離して、別会社を設立しました。

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現在、工場の本社やショールームは、広島市内にありますが、この敷地内には、実は以前、私の住まいもあり、小学校2年生までは、工場の敷地内に住んでいました。(その後、事務所・ショールームの拡張により広島市郊外に移転)

今では、東京や大阪にもショールームを構えるまでに成長しています。

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製造工場は、創業当時は広島市西区にありましたが、その後、郊外に移転し、現在は、広島の少し北にあります。 (現社長は叔父が務めています)

工場内には、創業者である祖父(渡辺礼市)の胸像も飾られています。

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祖父の胸像

現在、日本全国の高級ホテル向けにベッドを製造したり、海外ブランドのベッドを日本国内で一手に製造している工場のルーツは、この様に、広島の戦後の復興の歴史とともに歩んできたのです。

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ちなみに、工場本社の建物のすぐ傍には、原爆で被爆したレンガ造りの給水塔が現在も残されています。

今では緑の蔦で覆われている為、外からはよくわかりませんが、広島市の被爆建造物にも登録されている建物です。

私が小さな子供の頃から慣れ親しんだ遺構です。