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 > 知れば知るほど奥深い 磧本ソムリエのワイン講座 > LESSON#036 カリフォルニアワインの歴史

カリフォルニアワインの歴史
 生産量、名実ともにアメリカ随一の銘醸地、カリフォルニア。ソムリエ講座では詳しくきっちりお話いたしましょう。
伝道とともに伝わったぶどう

 アメリカのぶどう移植の起点になったのはメキシコで、スペインによるメキシコ征服後の 1530年前後といわれています。フランシスコ派のスペイン人修道士たちは、現在のメキシ コから「エル・カミノ・レア(王の道)」と呼ばれる道を北上しながら、当時、未開の地であったカリフォルニアで布教を行いました。1769年、ユニベロ・セラ神父はサンディエゴにミッション(伝道所)を開き、そこで、ミサ用のワインを造るためにぶどう栽培を始めます。これが、カリフオルニアにおける最初のぶどう園です。修道士たちはその後も北上を続け、ソノマに至るまで21のミッションを開き、カリフォルニア各地にワイン造りを伝えました。

カリフォルニア・ミッションでもっとも古い、ミッション・サンディエゴ・デ・アルカラ ゴールドラッシュ ワイン生産の知識を持ったひとりが、ハンガリー貴族のアゴストン・ハラスティ伯爵。

 1848年、メキシコ領からアメリカ領となったカリフォルニアで金鉱が発見され、あの「ゴールドラッシュ」が始まります。この時期、何万人という移民がカリフォルニアに押し寄せました。大半がヨーロッパ系の移民で、その中にワイン生産の知識を持った者もいたのです。そのひとりが、ハンガリー貴族のアゴストン・ハラスティ伯爵。彼はソノマ・ミッションのぶどう園を買い取り、ワイナリーを作るとともに、ヨーロッパからたくさんの種類のぶどうの苗木を輸入して、ぶどう栽培を普及させました。カリフォルニアのワイン造りを大きく飛躍させた功績から、「カリフォルニアワインのパイオニア」と呼ばれています。

禁酒法 違法な酒造所の強制捜査で下水道に廃棄される密造酒

 20世紀に入り、ヨーロッパで猛威を振るっていた害虫フィロキセラが、カリフォルニアにも蔓延します。しかし、カリフオルニアのワイン産業に決定的な打撃を与えたのは、1920年に施行された禁酒法です。禁酒法の下では、販売目的のワイン製造はすべて禁止。宗教儀式用あるいは医療用として許可を受けたワイナリーのみに製造が許されました。その結果、ほとんどのワイナリーが廃業に追い込まれ、カリフォルニアワインは大きく衰退します。しかし禁酒法は飲酒自体を禁じてはいなかったため、施行される直前の1919年後半には、ワインをはじめたくさんのお酒が買い溜めされる騒動になりました。

「量」から「質」への転換 大観光地になっているロバート・モンダヴィ・ワイナリー

 1933年の禁酒法廃止後、ワイナリーの再建が進みます。1950年代には、栽培と醸造の研究機関であるカリフォルニア大学デイビス校によってそれぞれの土地に適した品種や醸造法が確立され、アメリカのワイン造りは、「量」から「質」へと新たな時代に入ります。そして1966年、ロバート・モンダヴィがワイナリーを設立。ステンレスタンクの使用など、カリフォルニアの革新的で画期的なワイン造りが始まります。1970年代に興ったブティック・ワイナリーでは、シャルドネのオーク樽発酵、ピノ・ノワールの低温醸しなどさまざまな試行錯誤によって、カリフォルニアのワイン醸造技術は世界最先端のものとなっています。

パリ・テイスティング事件

 カリフォルニアワインの歴史でエポックメイキングな出来事といえば、カリフォルニアワインとフランスワインで対決した、1976年の「パリ・テイスティング事件」です。アメリカ建国200周年を記念して、イギリス人のスティーブン・スパリエ(当時、ワインスクール「アカデミー・デュ・ヴァン」主宰兼ワイン商)の企画によって行われました。結果、赤白ともにカリフォルニア産が1位に。当時まだ低かったカリフォルニアワインの評価を一夜にして覆し、カリフォルニアワインが世界の表舞台に躍り出るきっかけとなりました。そして、30年後の2006年にはリターン・マッチが開催されましたが(赤のみで同ワイン同ヴィンテージ)、またしてもカリフォルニア産が勝利。上位5つをカリフォルニアが独占する圧勝ぶりでした。

カリフォルニアワインの歴史でエポックメイキングな出来事といえば、カリフォルニアワインとフランスワインで対決した、1976年の「パリ・テイスティング事件」です。 アメリカワイン特集はこちら!
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