第4話 青木鞄 飯塚さんインタビュー(ご自身について)

飯塚貴志(いいづか たかし)株式会社青木 代表取締役社長 / 一般社団法人東京鞄協会 副会長
創業120年を超える青木鞄の社長であると同時に、“東京鞄協会”の副会長でもある飯塚貴志(いいづか たかし)さん。
一企業の社長として、また、鞄業界の中核を担う者として、飯塚さんは日々どんな想いでカバンと向き合っているのでしょう。鞄業界全体のことから、青木鞄が製品に込めている想い、そして飯塚さん個人が常に大事にしている想いまで。 おもしろおかしく、そして真剣に、惜しみなくお話ししてくださいました。

会社を継ごうと思ったキッカケ

―では次に、飯塚さんの生い立ちについて少々、

生い立ち!?

―いやあの、生い立ちっていうと大袈裟ですけど、

え? 1972年9月、飯塚昭義と飯塚節子の間に生を受け、とか?(笑)

―そういうことになっちゃいますよね(笑)。えーとそれでは・・・何歳のときに入社されたんですか?

二十歳ですね。

―何かキッカケはあったんですか?

えーと、親父が死んだので。

―お父さんが亡くなる以前に、会社を継ごうという考えはありましたか?

学生のころは、真剣に考えたことはありませんでしたが、今思えば、自然と継ぐことを洗脳されていたのかもしれません(笑)。でも、親父はずっと考えてたみたいですね。まずはアメリカに留学して、向こうの大学を卒業して、そのまま現地の企業に就職して、30歳くらいで戻ってこいって言ってたみたいです。英語能力の取得はもちろん、海外に行くことで強くなれる。分からないことが分からないってちゃんと言える、意思表示ができる。そういう強さを身に付けて帰ってこいと。親父の周りには、鞄業界の社長仲間がたくさんいたけれど、その中で親父だけ留学経験がなくて、だからこそ、これからは海外で戦っていける人材でなければいけない、そのために英語は必要だと強く感じていたようです。そんな考えのもと、僕には留学させたかったんだと思うんですよね。ただいかんせん、嫌いなんで、勉強。弟は勉強ができるというか、まっすぐ歩んできたんですけど、自分はブレにブレてきました。

―高校卒業されて、もう海外に行くという流れだったんですか?

高校卒業後、浪人して、今回ダメだったら行けよって言われてました。ダメに決まってるんですよ。だって浪人中に麻雀やってるんですよ?(笑)

― 留学は決まったも同然だったんですね(笑)。

でも実際に留学したら、なんて言うんだろ、「へぇ〜」みたいな。まず、入国審査の時点で何を言われているのか分からない……文法しか勉強してないから、英語を話されても何を言われているのかまったく分からない。偶然、ホームステイ先の息子さんが日本語を専攻していたので色々助けてもらったんですけど、食事のときとか当然のように英語が飛び交うわけですよ。何を言ってるのか分からないわけですよ。こっちに振られたって「は、はぁ……」みたいな。最初の三ヶ月くらいはなんとか会話しようとか、休みのときもホストファミリーと一緒に出かけようとか試みるんですけど、なかなか思うように楽しめず……。そうすると、似た境遇の日本人っているんですよね。そういう人たちと集まるようになって、ゴルフやったり、焼肉食べたりして、いっつも車で出かけて家には帰らなくなって。学校には行くけど、勉強が身に付くわけがない。日本人だけで集まる典型的なパターンです。そんなタイミングで親父が亡くなり、何も学ばないうちに日本へ帰国しました。ちょうど会社の状況が悪いことも重なって、後継ぎ問題や取引先とのこれからの問題など、会社として大きく変化しなくてはならないタイミングでした。会社は、代々飯塚家で続いていたけど、現状、おふくろは専業主婦で、弟はまだ大学生。そのとき、おふくろに言われたんです。「留学を続けたいなら、会社はわたしがやるから続けなさい。仕事をやりたいならやりなさい。あなたが決めなさい」と。当時の僕は、分からないながらに事の重大さを感じていたのか、迷わず「会社入ります」って言っていました。そのことを代々お世話になっている方々にご挨拶したら、「応援しますよ」って温かい言葉をかけてくださって、何十社もの方々が残ってくださり、今もそのまま支えていただいているのが現状です。入社して最初は出荷業務からスタートして、その次に営業部へ異動になって、東北、関東、大阪を回っていました。そのころ、ちょうど弟が大学を卒業したけど、おふくろと僕は、この状態ではまだ弟を巻き込みたくないと考えていました。でも弟は「なに言ってるの? もともと入るつもりだし」って言って、会社に入りました。その後、弟に営業部を任せ、僕は、企画や仕入生産部門を見るようになり、ここまで来ました。まあ、できた弟ですよ、冗談抜きで。彼がいたからこそ、僕はここまで来ることができたんだと思います。

―弟さんも、在学中からお手伝いはされてたんですか?

それはなかったですね。むしろ、家でラグビー部のみんなとドンチャン騒ぎしてましたよ(笑)。まあ、たまにですけどね。今でこそ笑い話ですけど、そのときは何も感じなかったですね。自分たちは仕事してるって思ってるだけで、「手伝えよ」っていうのは全然なかったですね。

―でも弟さんの中では、卒業したら会社に入るっていうのは決まってたんですね。

彼なりに、僕らを見て感じるものはあったみたいですね。

― ここまで、インタビュー以外でも飯塚さんのお話を聞いていて、端々に支えてくれる人への感謝の気持ちを感じることがたくさんありました。そういうのが仕事の原動力になっているのでしょうか。

そうですね。支えてきてもらっているから今がある。入社してからずっとそう思っています。だからと言って、例えば、見積もりをそのまま受け入れたりとか、そういうことはしないです。そこは商売ですから、僕らが守らないとお世話になっている取引先にも利益をバックできないじゃないですか。それから、現状はまだ、新規取引先を増やすことにはあまり積極的じゃないかもしれません。ありがたいことに、昔の取引先から声をかけていただくこともあるけれど、まだまだ早いですね。

―やっぱり、残ってくれた人たちのことを考えると。

そうです。中には生産力など、とても魅力的なところもあるけれど、そこにお願いするのであれば、今は海外の力を借りてカバーしようよって。それが、自分なりの筋の通し方です。同時に、それが自分の甘さや弱さかもしれませんね。もっとドライに考えることができれば簡単なのにと思うこともあります。

―ズバリ、恩を返したいと。

返したいですね。恩返しをするために仕事をしています。そこには、ご迷惑をおかけしたことに対するお詫びもありますが、受けた恩を忘れない人でありたいと、自分自身、強く思う部分もあります。恩返しをしたいと言うと美談に聞こえるかもしれません。でも、やっぱり、何をやるときも同じだけど、仕事をしていたら褒められたいじゃないですか。例えば、現在自分が仕切っている展示会では「今回の展示会良かったね」って言われたい。人に褒めてもらい、認めてもらいたいなって思いがあります。

―なるほど。

……レコーダーちゃんと回ってる?

―え? あ、はい。

よかったー、止まってたら引っぱたいてやろうかと思って(笑)(笑)(笑)。

― いや、もう、ブンブン回ってるので安心してください(笑)。

こんな風に真剣に話をする機会が無いから、だんだん苦しくなってきちゃうんですよ(笑)。

― いやもう、かなり熱い想いを聞けた気がします。男気ですね。やっぱり、そういうのがあって、今までの歴史を繋いでいるのかなって思いました。

親父の代、じいちゃんの代、みんなが繋いできているものだからこそ、自分の代では終わりにできない怖さは、常にあります。あと、僕と弟って双子なんですけど、親父は僕を跡取りにって言ってたらしいんですよ。弟はトップに立つよりもNo.2で力を発揮するタイプだと。僕はそれがプレッシャーで、「なんで跡継がなくちゃいけないの?」って。まあ、反抗ですよね。はじめのころは、「後継ぎが良いか悪いかも分からない中でやりたくない」みたいなこと言ってましたけど、実際やり始めてみると、42歳でひとつの会社を任せてもらえている、それってとても恵まれた環境だってことに気付いたら、苦しいっていうのはあまり感じなくなりましたね。いつも良い方向に考えようって意識して、苦しいなって思ったら切り上げちゃう。このままやっていても良くないなー、生産性も上がらないなーってときは、パッと切り上げて、次の日朝早く来て仕事しようとか。寝ると良い案を思いついたりするんですよね。

― 自分でメリハリを付けて、コントロールすると?

やっぱりね、365日24時間働くなんて無理ですよ。でもいつも、自然に仕事のことは考えていますね。「どうしよっかなー」っていう軽い感じですけど。唯一何も考えていない時間は、ゴルフをやってるときくらいですかね。

趣味はゴルフ

―ゴルフお好きなんですか?

最近、久々にまたゴルフやろうと思ってハマってるんですけど、すごくいい息抜きになりますね。

― やっぱり、業界の人と行くのが多いんですか?

うーん、特定の誰かっていうのはないですけど、やっぱりそうですね。

― けっこう本格的にやられてるんですか?

今年になって久々に、「あ、もうちょっと上手くなりたいな」って思うようになりましたね。今までは「これくらいで回れてたら人に迷惑かけないし、別にいいかな」って思ってたんですけど、今はもっと上手くなりたい。この歳でコンペで優勝したらカッコいいじゃないですか。結局そこかよっていう(笑)。

― (笑)。

得意先で140人くらいの大きなコンペがあるんですよ。そこで優勝できたらカッコいいだろうなって。30〜40人くらいのコンペでは優勝経験もあるけれど、140人規模ではプレーレベルも高いし、運も必要になってくるので、「優勝してぇなー」って思います。だから、今日も早いところ終わらせて練習に行きたいんですけどね。

― ……あ、今?

冗談ですよ(笑)。でも、気晴らしって必要ですよね。それがお酒の人もいるだろうし、麻雀の人も、パチンコの人もいるだろうけど、自分はゴルフで人と繋がってきた部分もあるので、今は上手くなりたいなぁって。

― 何がキッカケでやるようになったんですか?

僕は、小学校中学校とラグビーをやってたんです。高校でも続けたいと思って、当時強かった国学院久我山ってところに入学して、ラグビー部に入りました。でも、3日で辞めたんですよ。

― ……ん?

「坊主にしてこい」って言われて。僕、坊主嫌いだったので退部を選びました。でもラグビー目的での入学だから、退部したらもう学校に行く意味が無いんですよ。で、毎日フラフラしていたら、明大のゴルフ部出身だった親父が「お前ゴルフやれ」と。全部セットで揃えてもらい、ゴルフスクールに放り込まれました。本格的にプロに教わりながら、そのまま3ヶ月くらいゴルフスクールに通いました。それがゴルフを始めたキッカケですね。でも当時、ゴルフは親父世代のスポーツだったから、「なんで高校生が?」って思っていましたね。でも、そのスクールでゴルフを始めて、今もそのフォームです。途中、色んな人にあれこれアドバイスを受けてグチャグチャに崩れたこともあったけれど、結局今年になって、最初に教わったフォームに戻したんです。そしたらスコアが戻り始めたんですよ。

― では、ゴルフ歴はけっこう長いんですね。25年くらいですか?

始めてからは長いですけど、練習場には行かなかったので数字通りかと言われたら微妙ですけどね。仕事を始めてから、年に何回かプレーするうちに少しずつ上手くなって、100を切り、90も切れればいいなと思ってたら、久々のプレーで108になっちゃって。これはヤバイなと(笑)。

―そこは戻さなきゃいけないと(笑)。

仕事してる場合じゃないなと(笑)。

― 仕事はしてください(笑)。鞄業界は、ゴルフやられる方は多いんですか?

ゴルフができれば新しい繋がりを持てるようになるよって、大きい会社ではやらせ始めているところもあるみたいですね。ゴルフは長い時間をかけて色々な人と回るから、一緒に回る人の性格も分かるようになるんですよ。飲みに行くよりも、お互いに分かり合えますね。

社長の夢、青木鞄の夢

― お話はガラっと変わりますけど、夢ってありますか?

それは個人的な夢? それとも、会社の夢?

―ではまず、飯塚さん個人から。

ないですね。『北斗の拳』にラオウっていますよね。彼が死ぬとき、何て言ったか知ってます?

― 「わが生涯に一片の悔い無し」

僕そんな感じです、今。幸せなのかもしれないけど。

― おぉ。

「夢がない」っていう言い方が良いのか悪いのかは分からないですけど、例えば「一戸建てを買いたい」とか「海外旅行に行きたい」とか、そういうのは何もないです。

― 孫を抱っこしたいとかも?

全然。「マゴ?」って感じですよ(笑)。

― そんな顔しないでください(笑)。

何か一つ挙げろって言われたら、「船で世界一周してみたい」くらい。でも別にそれを目指して生きているわけではないです。人って夢を持ってなきゃいけないってよく言われるけど、僕個人は本当にないですね。会社の夢はありますよ。

― 伺ってもよろしいですか?

会社のリスタートです。今までの恩返しをして、ゼロに戻して、そこから見てろよ、みたいな。言い方は悪いですけど、僕は世の中お金だと思っています。お金の怖さを嫌というほど見てきましたから。お金があれば人はついてくるし、無くなれば離れていく人もいる。お金の良い部分も悪い部分も、たくさん見て、経験させてもらっているから、世の中、お金が大切だと。特に、稼ぎ方と使い方が大事だと、すごく強く感じますね。

― 職人さんの技とか日本製へのこだわりっていうのは、お金では計りづらい部分もあると思うんですけど、「そういうの別にいいじゃん」って思うところもあるんですか?

「そういうの」っていうのは?

― 例えば、日本の職人は技術継承できる環境が整わず、もしかしたら無くなるかもしれないけど、そのときはそのときで仕方ないと思ったりとか。

そんなことは、一度も思ったことがないですね。うちの製品で“Grand Master(グランドマスター)”っていう革のソフトトランクのような製品があるんですけど、それを作るにはとても高度な技術が必要で、現状はごく限られた職人さんにしか作れないんです。でも、この製品の継続について話し合うときに、「どうしてもこのまま継続したい」ということはなかった。この製品は青木鞄の中で長年継承していた大切な製品ではあったけど、技術を含めて、現状スタイルのまま継続する理由もないし、使い勝手など機能面を見ると、今の時代に必要なものが欠けているように思えたんです。大切なことは、この製品をベースに、これからの技術でどう生かしていくかということで、10年前20年前とは生活環境が変わっているから、その時代に合わせて変化を必要とする部分は必ずあると思います。同時に、残すべき部分は大切に守り、それは新しい製品にも継承していく、そこも重要ですね。世の中お金だって言いましたけど、お金で動くところと、ここはお金じゃないだろって思う部分、両方が存在していて、それが筋を通すことやプライドだと思うんですよね。例えば、今は取り引きのないメーカーさんから「お金をあげるからうちに作らせてよ」と言われても、僕は絶対に動かない。その反面「いくら?」って聞くかもしれないですけど(笑)。

― (笑)。

でも仮に、それが「3億」って言われたら、僕は動きます。その3億で迷惑をかけた取引先に恩返しができるのであれば、「それでいいじゃん」っては思います。僕のこだわっているプライドを放つことですべてが良くなるなら、それでいいじゃんって。

― やっぱり、一番やりたいことってなると、そこなんですか?

そこですね。受けたご恩をお返しすることです。

子どもの頃の夢

― ちょっと雑談になりますけど、子どもの頃の夢って何かありましたか? サッカー選手とか、パイロットとか。

うーん、「親に管理された環境から逃げたかった」ですかね。僕は、小学校4年くらいから、塾・家庭教師・塾・家庭教師・塾・家庭教師っていう環境だったんです。しかも、分からないことを分からないって言えなかったので、だんだんついていけなくなって、中学受験の1ヶ月前に、弟の目の前でバイクに轢かれたんです。

― ……ん?

だからね、けっこう深いよ、僕(笑)。

― けっこうヘビーなことを不意打ちではさんできますよね(笑)。

弟と友達の4人で、夜の10時くらいかな、公園でブーメランを投げて遊んでいたんです。それが戻ってこなかったので取りに行ったらバイクに轢かれたんですよ。で、50mくらいダーーーっと引きずられて、救急車で運ばれて、生死をさまよって、全治3ヶ月。

― ……

生きてるからね(笑)。

― あぁ、はい(笑)。

すごいなと思うのは、弟は、僕が轢かれていくのを目の前で見てるわけですよね。

― それけっこうトラウマですね。

それが入試1ヶ月前です。普通、受験に行かせませんよね。行かせたんですようちの母親は(笑)。

― 全治まで2ヶ月残ってるのに(笑)。

車椅子で試験を受けましたからね。内蔵腎臓圧迫、頭蓋骨ヒビ、坐骨骨折、全身打撲な状態なのに(笑)。でも、結局座っていられないから、保健室で横になって、ちょっと良くなったら受けて、ってやったんです。受かるわけないじゃないですか。結局、中学受験は失敗したんです。だから、高校受験では失敗させたくないってなって、管理体制がさらに厳しくなり、反対に、親の目を盗んでなにかすることが増えていきました。その頃は、本当に親から逃げたかったし、解放されたかったです。

カバン屋の家に生まれて良かったなと思うこと

― 代々続いてきた会社のご子息となると、大変なものがあるんですね。逆に、カバン屋の家に生まれて良かったなーって思うことはありますか?

カバンや財布がタダなことかな。タダじゃないけどね(笑)。

― カバンには困らないですよね(笑)。

あーでも、この業界に23年いて、唯一このカバンだけは自分で持とうって思ったのは、猪瀬さんのところで見ていただいた、あのブライドルレザーのダレスです。あれは自分が欲しくて企画したんですよ。もちろん営業にはそんなこと言わないけど。「これからはこういうのが必要になってくるんだよ!」って言ってます(笑)。

― となると、こだわりは相当強くなりそうですね(笑)。

そうですね。さっき、猪瀬さんの工房でサンプルを見ながら、厚みがうんぬんって言っていたことも、こだわりの一つですね。一般的に皮革は、薄いほうが柔らかく、厚いほうが硬く頑丈じゃないですか。それは重さにも影響が出てくるけど、ブライドルレザーだとその差は外観から判断することが難しくて、作った側にしか分からないこともあります。同じブライドルでも、薄い皮革だと、早く皮革が柔らかくなって型崩れしやすくなるし、厚い皮革が使用されていれば、より長く、買ったときのシルエットがキープできるなど、製品の重さや値段には、きちんとした理由があるんです。でも、カバンって難しいなと感じるのは、カバンの良さって使ってみないと分からないことが多いんですよ。カバンはモノを収納して運ぶための道具だから、できれば軽いほうがいいに決まっているけれど、軽さと耐久性をともに持ち合わせたカバンなんてなかなか存在しないと、僕は思います。

― そのダレスより以前に欲しいと思うものはなかったんですか?

一つありました。唯一持っていたカバンは、アタッシュケース。僕はアタッシュケースかダレスバッグしか持たないって決めています。アタッシュケースとダレスバッグには共通する魅力があって、持って歩くと背筋が伸びるんですよね。気持ちがピーンと正されるというか、ダラっとは持てない。それがいいなと思います。

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