Japan made
滝田商店の祖霊舎は職人が
一つ一つ丁寧に仕上げた国産品

こちらの祖霊舎は、熟練の職人によって国内で製造された国産品です。
細部までこだわった丁寧な仕上がりで、洗練された匠の技を感じていただけます。
日本の気候にあわせて製作しており、気温や湿度の変化による反りや割れが生じにくいしっかりした造りで、末永くお使いいただけます。
“Made in Japan”ならではの安心と信頼の国産仏壇をお届けいたします。

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祖霊舎・霊璽・神葬祭について

祖霊舎(神徒壇)とは+
神道(しんとう)では霊璽(れいじ)に故人の御霊(みたま)を移して、家庭でお祀りすることにより、故人や先祖はその家の守護神となり子孫を守るといわれています。 故人や先祖の御霊を祀る祖霊舎(それいしゃ)は、御霊舎(みたまや)、神徒壇(しんとだん)、祭壇宮(さいだんみや)ともいわれ、仏式の仏壇に当たるものです。

祖霊舎は五十日祭を終えた新しい御霊を祀るものですから、五十日祭までに用意して安置されることが多いです。 新しい祖霊舎を購入された場合は、五十日祭のときに神社の神職(しんしょく)にお願いしてお祓いをして頂き、霊璽を祖霊舎の中に祀ります。 祖霊舎には霊璽を祀る奥の内扉がついていますので、その中に霊璽を納めます。 祖霊舎の外扉は常に開けておくのが一般的ですが、霊璽を祀る奥の内扉は閉めておきます。

祖霊舎のお供えは神棚と同じように、お米・お塩・お水・お酒・榊などをお供えします。他に季節の物や、故人の好物などもお供えします。 お参りの仕方も神棚と同じように、2回お辞儀をし、2回拍手(かしわで)を打ち、1回お辞儀をする二拝二拍手一拝(にはい にはくしゅ いっぱい)の作法でお参りします。 お参りの順番は神棚を先に、祖霊舎はそのあとに拝礼します。
祖霊舎の安置場所・方角+
祖霊舎(それいしゃ)は、その中に故人や先祖の御霊(みたま)が宿る霊璽(れいじ)を祀りますので、神社のお神札(ふだ)を祀る神棚とは別に安置します。
神棚の下や隣に安置することもありますが、祖霊舎の位置が神棚より低くなるよう安置します。
南向きか東向きで、家族みんながお参りしやすい場所がよいとされています。
祖霊舎の材質+
家庭用の祖霊舎は、桧や栓(せん)などの素地を活かした白木造りで作られています。
木地の種類としては、桧材、栓材、ビバ材、欅材などが用いられます。
祖霊舎の種類+
祖霊舎には、さまざまな種類のものがあります。
どこにでも置ける小型祖霊舎、押入れの中や箪笥の上に置く上置型祖霊舎、地袋の上に置く地袋付型祖霊舎、下から直接置く台付型祖霊舎などがあります。
霊璽(御霊代)とは+
神道(しんとう)では霊璽(れいじ)に故人の御霊(みたま)を移して、家庭でお祀りすることにより、故人や先祖はその家の守護神となり子孫を守るといわれています。
仏式の位牌にあたる霊璽は、御霊代(みたましろ)ともいわれる故人の御霊が宿る依代で、最も丁寧に扱わなければならない神聖なものです。

葬儀において仮の霊璽を使った場合は、五十日祭までにきちんとした故人の霊璽をつくり、五十日祭が終わると家庭の祖霊舎(御霊舎・神徒壇・祭壇宮)の中にお祀りします。
神道では一般には五十日祭をもって忌明けとなります。

神道では仏式の戒名に当たるものはありませんが、神社の神職から霊号(れいごう)をつけていただきます。
霊号は氏名の下に「命(みこと)」の号をつけた「○○○○命」という霊号が一般に多いです。
「命」の前に、男性の場合「大人(うし)」、女性の場合「刀自(とじ)」をつけ「○○○○大人命」「○○○○刀自命」とする場合もあります。子供の場合「彦」「姫」をつけることもあります。

霊璽はさまざまな形があり、鏡などが使われる場合もありますが、角形の白木に上からかぶせる覆いがついたものが一般的です。スペースに余裕がない場合は、10名分まで1つにまとめることのできる回出型もあります。
覆いをとった中の白木の表面には霊号を「○○○○命之霊」、裏面には亡くなった年月日、亡くなった年齢を「平成○年○月○日帰幽 享年○歳」などと記入します。
霊号を書いた霊璽は、覆いをかぶせて祖霊舎の奥の内扉の中に祀ります。
霊璽の歴史+
霊璽(れいじ)は元来、中国の儒教で祖先祭祀をおこなう際の祖霊の御霊代(みたましろ)として用いられ、木主(ぼくしゅ)・神主(しんしゅ)ともいわれていたものです。
これが仏教にも受容され、日本では中世に初めて禅宗で位牌が用いられ、江戸時代に広く普及しました。
近世以降、神職や学者により我が国固有の葬儀の形を求めて、神式の葬儀(神葬祭)を考究するさまざまな動きがあり、この中で、祖霊祭祀に対する考え方が近い儒教の制も参考としました。
現在の霊璽の形が、儒教のものと似ているのもこうした理由によるものです。

神式の霊璽の蓋は、ほかに御霊代として用いられる神鏡にも樋代(ひしろ)という蓋がされたり、祖霊の依り代となる霊璽が、直接、人の目に触れることを避けてのことと考えられます。
これは仏教と神道の根本的な性格の違いとして指摘されるように、仏教では本尊とされる仏像でも拝観の対象となりますが、神道の場合、神は形として目に見えぬ霊性であるといった考え方にも関連することと思われます。
霊璽は、日常は蓋をしたままの状態でお祀りをし、年祭や春秋季例祭(彼岸)、また中元祭(盆行事)などのお祭りに際しては、蓋を取ることもあります。
霊璽の材質・種類+
霊璽は桧の素地を活かした白木造りのものや、錦で覆ったものがあります。
木地の種類としては、木曽桧に代表される桧がほとんどです。
また霊璽には一人用のものと、札板が10枚くらい入る回出型のものがあります。
神葬祭とは+
神道(しんとう)の形式によって行われる葬儀を神葬祭(しんそうさい)といいます。
神葬祭では、人が死去(帰幽といいます)しますと神社の神職が神道の形式にて執り行います。
神道で行われる葬儀は仏式とは異なります。
仏式は故人を極楽浄土に送るための葬儀ですが、神葬祭は故人の御霊をその家にとどめて、家の守護神となってもらうための儀式です。

神葬祭では仏式のように焼香や線香を用いることはなく、これに当たるものが玉串奉奠(たまぐしほうてん)です。玉串とは榊の枝に紙垂(しで)を付けたものをいいます。
玉串を捧げたあとは二拝二拍手一拝(にはい にはくしゅ いっぱい)の作法でお参りしますが、神葬祭や五十日祭までの拍手は、音を立てないようにそっと手を合わせる忍び手にします。

神道において死とは穢(けが)れであるため、神の鎮まる聖域である神社で葬儀を行なうことはほとんどなく、故人の自宅か、別の斎場で行ないます。
しかし神道でいう「穢れ」とは、「不潔・不浄」だけを意味するものではありません。
肉親の死による悲しみ、それによって、ハツラツとした生命力が減退している状態、それこそが「気枯れ」=「けがれ」であるといわれています。
神葬祭の流れ+
  1. 帰幽奉告
    家族が亡くなった場合、まず帰幽奉告(きゆうほうこく)といって神棚、祖霊舎(それいしゃ)に故人の死を奉告します。この後、神棚の前に白紙を下げます。
  2. 枕直しの儀
    遺体は白の小袖を着せて通常北枕に寝かせます。前面には祭壇を設け、お米・お塩・お水・お酒、故人の好物などを供えます。
  3. 納棺の儀
    遺体を棺に納める儀式で、棺に蓋をして白い布で覆った後、全員で拝礼します。
  4. 通夜祭および遷霊祭
    通夜祭(つやさい)は仏式の通夜に当たるものです。神職が祭詞(さいし)を奏上し、遺族は玉串を奉って拝礼します。
    遷霊祭(せんれいさい)は、故人の御霊(みたま)を霊璽(れいじ)に遷し留める儀式です。「御魂移しの儀」を執り行い、夜を象徴して部屋を暗くし、神職により遺体から霊璽へ御魂が移されます。
  5. 葬場祭
    葬場祭(そうじょうさい)は仏式の葬儀・告別式に当たります。故人に対し最後の別れを告げる、神葬祭最大の重儀です。弔辞の奉呈、弔電の奉読、神職による祭詞奏上、玉串奉奠などが行なわれます。
  6. 火葬祭
    火葬祭は遺体を火葬に付す前に、火葬場にて行なう儀式です。神職が祭詞を奏上し、遺族が玉串を奉って拝礼します。
  7. 埋葬祭
    埋葬祭は墓地に遺骨を埋葬する儀式です。昔は、火葬場から遺骨を直接墓地へ移して埋葬していましたが、最近は一度自宅へ持ち帰り忌明けの五十日祭で埋葬するケースが増えています。
  8. 帰家祭および直会
    帰家祭(きかさい)は火葬・埋葬を終えて自宅へ戻り、塩・手水で祓い清めて霊前に葬儀が滞りなく終了したことを奉告します。この後、直会(なおらい)を行ないます。
    直会とは、葬儀でお世話になった神職、世話役などの労をねぎらうため、宴を開いてもてなすことです。これによって葬儀に関する儀式はすべて終え、これより後は、霊祭(れいさい)として行なっていきます。
神葬祭の包みの表書き+
神葬祭の参列者が持参するお包みの表書きは、「御霊前」あるいは、「御玉串料」と書きます。市販のものには、蓮の絵がついた仏式用が多いようですが、そうでないものを選びましょう。
霊祭の場合は「御玉串料」と書きます。神職への謝礼の表書きは「御祭祀料」あるいは、「御礼」と書きます。
神葬祭の歴史+
神道の形式によって行われる葬儀を神葬祭といいます。
葬儀というと一般的には仏教の専門と思われがちで、事実、仏教の形式によって行われる葬儀が大半を占めています。
しかし、神葬祭はすでに仏教伝来からあったことが、古事記や日本書紀といった古典にも記されていて、神葬祭は日本固有の葬法だったことを物語っています。

仏教伝来以降は、急速に仏教の形式による葬儀が普及していき、さらに江戸時代になると寺請制度が実施されたことから、その傾向はますます強くなりました。
そのような時世の中、国学の興隆によって国学者らによる神葬祭の研究も行われるようになり、神職とその嫡子に限って神葬祭が許可されるようにもなったのです。
明治時代になると、一般人に至るまで神葬祭が許可されるようになり、全国へ広まっていきました。
神道の死生観+
神道は祖先を崇敬する信仰が基になっています。
氏族の始祖を氏神(うじがみ)として崇敬し、祖先を自分たちの守り神として崇敬します。
このように人は死後、家族や親族を見守る御霊となって祖先神の仲間入りをすると考えられます。
この、人と神の連続性は、神道の大きな特徴と言えます。

江戸時代の豊受大神宮(とようけだいじんぐう)の祠官であった、中西直方は「死道百首」の中で、「日の本に生まれ出にし益人(ますびと)は神より出でて神に入るなり」と詠んでいます。
これは、祖先の神々から出たものは、やがて一生を終えると祖先の神々の所へ帰っていくのだという意味であり、この歌は実に明確に日本人の死生観を表しています。

つまり、日本人の生命は、祖先から自分へ、自分から子孫へと永遠に連続を形成するのです。 いいかえれば、これは霊魂の不滅、霊魂の引き継ぎともいえるでしょう。
そして、私ども日本人の御霊は、仏教でいうような十万億土にいくのではなく、わが家、わが郷土、わが国に留まって、祖神と共に子孫の繁栄を見守り、子孫からのお祭りを受けるのです。
霊祭とは+
神道(しんとう)では、仏式の法要にあたるものを霊祭(れいさい)、または「みたままつり」といいます。 故人の死亡した日から数えて10日ごとに、十日祭、二十日祭、三十日祭、四十日祭、五十日祭と行います。 五十日祭は仏式でいう四十九日にあたり、納骨をする場合も多く、親戚・知人を招いて丁重に行います。 五十日祭が終わったら霊璽(れいじ)を祖霊舎(それいしゃ)に移し、先祖の御霊(みたま)と共に合祀します。 一般には五十日祭をもって忌明けとします。

次いで百日祭、一年祭と行われますが、一年祭は特に丁重に行います。 霊祭は神社ではなく、自宅や墓前、斎場などで行います。 祭壇に御供物を供え、神職に祝詞(のりと)奏上をしてもらい、玉串奉奠などの神事を行います。 一年祭は、仏式の一周忌にあたり、亡くなった1年後に行います。 一周忌と同様に、近親者や、故人と縁の深かった友人・知人を招いて盛大に行います。 一年祭は祥月命日の当日に行うのが理想ですが、実際には参列者の都合もあり、最近は週末に行うことが多いです。

一般には、一年祭が一つの節目と考えられます。 一年祭までは神葬祭の延長と考えられ、それ以降の儀式を祖霊祭といいます。死を弔う儀式から、家の守り神として鎮祭する儀式としての意味合いが強くなります。 祖霊祭(年祭)は、三年祭、五年祭、十年祭と続き、以後10年目ごとに霊祭が行われ、五十年祭へと続きます。 年祭の数え方は仏式とは異なり、三年祭は実際に死んだ年から3年目(以下五年祭・十年祭とも同様)となります。 一年祭がひとつの区切りとされたのは、御霊は帰幽(死去のこと)のあと、一定の期間は荒々しい状態「荒魂(あらたま)」で、祖霊として御霊が和み(なごみ)「和魂(にぎたま)」、鎮まる期間を、生活の基本単位の1年と定めたことによるものと思われます。

祖霊舎に納められた御霊は家族の最も身近な祖霊として、節目節目の霊祭はもちろんのこと、日々の生活を共にし、毎月一日、十五日は月の節目としてお供えを丁寧にします。 祥月命日に行われる正辰祭(せいしんさい)は家族そろって拝礼し、春分の日、秋分の日(彼岸)にもお墓参りなど祖先の御霊に追慕の誠を捧げ、その御加護を祈ります。 このように霊祭を続けていくことで、御霊は霊威を増し、神霊へと高まり家の守護神として永く子孫を守護するものと考えられています。
神道のお墓+
神道のお墓は奥津城(おくつき)といいます。 形は一般に見るような仏式のお墓と変わりませんが、正面に「○○家之奥津城」と刻みます。
お参りをするときは線香を供えず、お米・お塩・お水・お酒・榊などを供えます。もちろん、故人が生前好んだ食べ物やお花を供えても差し支えありません。
忌服+
忌服(きぶく)の「忌」とは、世間に出ることを慎む期間であり、「服」とは喪服のことで、喪服を着て謹慎している期間をいいます。 期間が定められている理由としては、死者へ向けられた悲しみを次第に薄れさせて、慎んだ生活状態から少しずつ平常の生活状態へ戻すためだともいわれています。

わが国では、古くから忌服の制度があり、明治7年には武家の忌服制に基づいて太政官布告の「服忌令(ぶっきれい)」が出され、親等別に忌服の期間が定められました。 しかし、これをこのまま現代社会に適用することは不可能で、最近では、五十日祭までを忌の期間(忌中)、喪に服している期間(喪中)を1年間とするのが一般的です。
忌の期間は、お祝い事への出席、神社への参拝は慎みます。 服の期間は喪服を着用し続けることはしませんが、正月行事や祭りごとへの参加は控えます。