No.03 受け身の道具 茶托のこと
漆器・輪島塗:朱段付小茶托・奥田志郎

 「カトン」と茶碗を茶托にのせる。快い木の音。
 香り高い茶に心憩わすとき。少し茶こぼれがあると、茶碗の高台に茶托がくっついてくるのは不快なものである。また蓋付の茶碗を用いる時、蓋を茶托に預けると、軽くてとび上がるもの困る。
 茶托は、静かに茶碗の置かれる時を待っているものでなくてはならぬ。
 茶托とは受けとめるためにのみ存在する道具である。それ自体だけでは用をなさぬ。だから、それ故におろそかにされることが多い。
 茶碗はよいものを選んでいる方でも、茶托は粗末な場合が多い。目立たぬものだから、しっかりと手応えのあるものがほしい。
 着物以上にかくれた部分を気遣う女人のように・・・。
 茶托は高台仕切のあるものが安定がよい。銘々皿に兼用するのは不潔感がある。茶托として用いられていたものに、次は菓子が盛られて出て来るのは、いい気持ちのものではないから。家庭で紙コップ敷きをお使いになっているのを見かけるが、水がこぼれた時、いかにもあわれである。茶托をコップ台にすればいいわけで、茶托の用途はいくつでもある。損じなくなってしまったコーヒーカップのソーサーにもなる。
 茶托はやはり木でなくてはと思う。しかも適度な水分の含み方をしてくれるのは、漆の他はない。
 日用の器の中でどうしても漆塗でなくてはならぬものは、茶托、盆、椀だと私は思っている。
 高台仕切内は茶碗の底があたる部分なので、小さな傷ができるのは当然だが、この「擦れ(こすれ)」は、自分の所作の歴史を語ってくれる。
 大切に選び、この手の内で古くなった漆器は、いつくしみつくした愛する人の老いのように、深々と美しいものではないかと思う。
 骨董屋で買う古い漆器は、他の人の手の匂いがする。飾ったり、参考品にするにはよいだろうけれど、日用に使うのは、私はイヤである。
 自分の先祖の残した伝世の品はまたよいと思うけれども。

工芸店ようび 店主 真木
このコラムは、1977年「マダム」(鎌倉書房)に連載されたものです。