
2020.3.25
DR.MARTENS × キース・ヘリング
メンズファッション誌
「smart」元編集長
佐藤 誠二朗さん
メンズ雑誌「smart」をはじめ、これまで多数の編集・著作物を手掛けている佐藤さん。
2018年11月には「ストリート・トラッド~メンズファッションは温故知新」が発売
こちらを本屋で見かけて読まれた方もいるのでは!?
そんな佐藤さんが当店の取り扱いアイテムをコラムで熱く語ってくれるコーナーです!
実はあまり知られていないブランドの歴史などもこれを見れば知ることができるかも!?
私の好きなドクターマーチン
1980年代前半の中学生時代、当時の最先端カルチャー(決してメインストリームではありませんが)であるニューウェーブとハードコアパンクにどハマりした私。
学校の勉強や試験はなるべく楽して切り抜けつつ、数少ない話の合う友人とソッチ系の情報交換に勤しんでいました。
高校生になると、その趣味はさらに拍車がかかります。同級生とパンクのバンドを組み、その頃マイナーカルチャー系の唯一の情報源だった雑誌を読みあさりながら、ファッションにも徐々に目覚めていきます。
そんなパンク少年だった私には、どうしても欲しい靴が二つありました。
一つはジョージ・コックスのラバーソール。
そしてもう一つがドクターマーチンのブーツです。
特にドクターマーチンに対する憧れは強かったのですが、当時の日本では売っている店が少なく、また売っていたとしてもべらぼうに高い値段がつけられていました。

小遣いの乏しい高校生だった私がどうしたかというと……。当時の日本の多くのパンクスが、いたしかたなくそうしていたのと同様、土木作業などで使われる安い安全靴を手に入れ、それをドクターマーチンに見立てて履いていたのです。
安全靴をおしゃれアイテムとして履きこなすスタイルは、あながち見当はずれのものではありません。
ロンドンのパンクスが履いている憧れのドクターマーチンブーツだって、もとはといえば労働者用のワークブーツなのです。
ドクターマーチンブーツが手に入らないならまずは安全靴、というのは然るべき選択だったわけです。
とかなんとか言いつつ、本当にのどから手が出るほど欲しかった私は、大学生になりバイト代で懐が潤うと、すぐさまドクターマーチンのブーツを入手します。
型番1460、ドクターマーチンが最初に世に出した8ホール(ヒモを通す鳩目が片側8つ)ブーツです。
以来、ドクターマーチンは私にとって、永遠のワードローブとなり、一足履きつぶすたびに新しい一足を買い直して今に至っています。
ドクターマーチンの定番アイテム
作業靴からおしゃれアイテムへ
ドクターマーチンは、UKストリートスタイルを象徴する靴として知られていますが、要となるエアクッションの効いた“バウンシングソール”を開発したのは、クラウス・マルテンというドイツ人医師です。
彼はそのソールのイギリスでの製造・販売権を、作業用と軍用の靴メーカーであったR.グリックス社に売却。そして1960年、同社はバウンシングソールを施した最初のドクターマーチンブーツ・1460を発売しました。
ドクターマーチンブーツは当初、郵便配達人や警察官、工場労働者などに重宝される実用本位の作業靴でした。
しかし1960年代後半、モッズから発展したワーキングクラス層の若者集団・スキンヘッズが、反体制・アンチファッションの表現として用いるようになります。
スキンヘッズは労働者階級というアイデンティティを誇示するため、モッズスタイルをベースにワークアイテムをミックスし、独自のスタイルを形成していった集団です。
炭鉱や港湾労働者、土木作業者が使うワークウェアをアレンジしたファッションを好んだ彼らがもっとも愛したアイテム。それが、ドクターマーチンのワークブーツだったのです。

スキンヘッズは1960年代後半に隆盛を誇りましたが、やがてその粗暴な振る舞いで世間から白眼視されるようになり数を減らしていきます。
しかし1970年代後半、パンクムーブメントとともに復活し、ネオスキンヘッズと呼ばれる改良型スタイルを生み出します。彼らの間でも、ドクターマーチンブーツは変わらず支持されました。
また、1970年台中頃〜後半のロンドンパンクスの間でも、ドクターマーチンはステイタスシンボルになります。
当時、パンクというのはメルティングポットのようなものだと言われていました。
過去にイギリスで起こった様々なユースカルチャー、例えばテッズやロッカーズ、モッズ、スキンヘッズ、グラムロックなどの要素をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせ、乱雑に再構築したようなカルチャーだったからです。
ファッションにもそうした先達のスタイルが要所要所に生かされていて、テッズから引き継いだラバーソールとともに、スキンヘッズ由来のドクターマーチンブーツもパンクスの必須アイテムとなったわけです。
パンクの登場以降、ドクターマーチンはロックな香り漂うストリートアイテムとして完全に定着していきます。
おさらいセックス・ピストルズ
現在のドクターマーチンは、シーズンごとに斬新なデザインの最新作を発表する一方、さまざまなユースカルチャーに支持されてきたみずからの歴史をアーカイブするような企画アイテムもリリースし、話題を呼んでいます。
ロンドンパンクの雄、セックス・ピストルズのデザイン要素を織り込んだコラボモデルもその一つです。
セックス・ピストルズとは?
1970年代にロンドンのキングスロードで、ヴィヴィアン・ウェストウッドとともにブティックを経営していたマルコム・マクラーレンがプロデュースし、世に送り出したバンド。
バンド名もブティックの名前「セックス」からとったものです。
反キリスト教主義を打ち出した1976年11月発表のデビュー曲『アナーキー・イン・ザ・UK』や、女王を揶揄した1977年5月発表のセカンドシングル『ゴッド・セイブ・ザ・クイーン』は賛否込みで大反響を呼びます。
また、ライブなどで繰り返される暴力沙汰や、メディアに登場するたびに放送禁止用語を連発する悪たれな態度は、“パンク”とはいかなるものなのかを世間に知らしめました。
セックス・ピストルズは結局、1978年1月に空中分解。ベーシストのシド・ヴィシャスは同年、恋人を刺殺したあげく、保釈中の1979年2月に薬物過剰摂取により21歳の若さでこの世を去ります。
一瞬だけ激しく輝いてあっという間にいなくなってしまったメチャクチャなバンドですが、彼らは後の時代まで多くのフォロワーを生み出すほど大きな爪痕を残しました。

音楽やファッションだけではなく、アルバムのジャケットやポスターなどのビジュアル面でも、世間に大きなインパクトを与えたセックス・ピストルズ。
そのアートワークは、マルコムの美術学校時代からの友人であるジェイミー・リードという人が手がけました。
脅迫状のような活字の切り貼り風フォントや、ロック史に残るショッキングなデザインとして知られるアルバム『ネヴァー・マインド・ザ・ボロックス』のレコードジャケットも彼の手によるものです。
今回のドクターマーチンのコラボアイテムは、そうしたアートワークがモチーフとなっています。
SEX PISTOLS(セックス・ピストルズ) コラボアイテム
アート界の寵児キース・ヘリング
今回、もう一つご紹介したいドクターマーチンのコラボアイテムが、キース・ヘリングのアート作品をフィーチャーしたものです。
キース・ヘリングとは1958年に生まれ、1990年にこの世を去ったアーティスト。
シンプルな線でリズミカルに描く画風で一世を風靡した、ストリートポップアートのパイオニアとも呼ぶべき画家です。

彼の活動が世に知られるようになったのは1980年のこと。
ニューヨークの地下鉄構内で、使用されていない広告掲示板に黒い紙を張り、その上にチョークで絵を描くというゲリラ的手法で作品を残していきます。
ニューヨークではそれ以前にも、地下鉄などの公共施設に数多くのグラフィティが見られましたが、キース・ヘリングは街の落書きをアートのレベルまで引き上げた第一人者です。
作品がニューヨークの通勤客の間で評判となり、キース・ヘリングの名は瞬く間に有名になっていきます。
キャッチーでユーモラスな作品がさまざまなファッションアイテムや雑貨などにも用いられるようになると、当時=1980年代のトップを走るトレンディなアーティストと目されるようになりました。
同世代のジャン=ミシェル・バスキアや、大先輩であるアンディ・ウォーホルなどのポップアート作家とも深い親交を結んだキース・ヘリングは、気難しく寡黙なアーティストではなく、積極的にメディアに登場し、多くのメッセージを発信するタイプの人物でした。
特に自身がHIV感染者だったこともあり、80年代に問題が深刻化したエイズの撲滅活動に積極的にかかわります。
そうした社会貢献活動も相まって、将来のアート界を担う重要人物として世界中から注目される存在へと成長していきましたが、1990年2月、エイズによる合併症のため31歳の若さで亡くなってしまいます。
今回のドクターマーチンのコラボ商品は、『Radiant Baby』や『Angel』をはじめとする、キース・ヘリングの代表作が大胆なグラフィックとして施されています。
死後30年以上経過した現在も、彼の斬新なアート作品は私たちの心を躍らせてくれるものですが、それらの作品に込められたメッセージを味わいながら身につけると、より深く楽しめるのではないかと思います。